このレポートはネタバレですので、見たくない人は見ないでください。
劇場版∀ガンダムは1999年に放映されたテレビシリーズを再編集したものです。
テレビシリーズは全50話ですので、そのままI、II合わせても5時間弱というのは
あまりにも短すぎます。
むろん富野監督曰く、「削れる間はすべて削った」ということですがそれでも
短すぎることには代わりがありません。
そこで今回とられた手法がIとIIの間が時間的に連続しないという手法です。
「地球光」ではロランの地球降下から、ロスト・マウンテンの核の爆発をクライマックスに、
ウィルゲムの出航を予兆させながら「月光蝶」へと引き継ぎます。
TV作品を分割、映画化するときに重要であり、かつ難しいのは
起承転結のスケールを調整することです。
シリーズ全体の「結」を持っていける後編に比べ
前編はこと後編へのつなぎに終始してしますことが残念ながら多くなってしまします。
でも、この「地球光」はそうではありません。
猫的には「地球光」こそがターンAであり、そして1本の映画としての完成度
は「地球光」の方が上かもしれません。
物語は、月の民・ムーンレイスであるロラン達が、
地球帰還作戦の尖兵として地球にMS・フラットで降下してくるところから始まります。
彼らは本隊降下前に環境適応テストとして地球に行き、
そしてそれぞれの土地に馴染んで地球人となっていきます。
ハイム家に雇われたロランが地球に馴染み成人式に臨むまで
物語はいたって牧歌的にすすんでいきます。
そこに月の民の帰還であるはずの地球降下作戦が、双方のすれ違いにより
月の市民軍・ディアナカウンターの事実上の侵攻といったものになってしまいます。
燃え上がるノックスの町、MS・ウォドムの猛攻、
それに呼応したかのような∀の復活、そしてソシエ=ハイム嬢の父の死。
ロランは地球人でもあり、そしてムーンレイスでもあるその立場から双方の和平を純粋に願えるのですが、
ソシエ嬢はそうはいきません。
彼女は父のカタキとばかりに
わだかまりの捨て切れれない人類の象徴として、戦争にのめりこんで行くのです。
ストーリは進み
人々の憎しみ、偏見、利害、野心を吸収しロランの平和への願いもむなしく
和平は成立せず、ひたすらに戦争へと事態は進展していきます。
(この間月の女王ディアナ=ソレル様と
ディアナ様に瓜二つなキエル=ハイム嬢との入れ替わりという要素を交えます。)
そしてついに人々は、古代の遺跡「ロストマウンテン」に保存された核を
見つけてしまいます。
そこでも核の恐ろしさを知っているものが精一杯危険性を訴えるもかなわず、
人類は再び核の洗礼を受けるのです。・・・。
核の光、真夜中の夜明け。
人類の愚かさ・・「業」の光・・。
この光の前にソシエ嬢は戦争を回避しなくてはという気持ちに初めてなれるのです。
それも自然に。
(このときソシエ嬢に求愛をしたギャバンも核とともに吹き飛んでいるにもかかわらず、です。)
そしてロランとソシエ嬢は敵の士官から残った核を捨ててきてくれ、と
核兵器の始末を託されます。
託された「核兵器」は、核兵器であると同時に
自らを滅ぼしつつ戦いつづける人類の業の象徴であり、
ロラン達はそれとの別離をも託されたのです。
託されたその先、ロラン達は・・・?そして物語は「月光蝶」へと移きます。
∀ガンダムIのタイトルである「地球光」。
何気なく流してしまうこの単語ですが、
これはロストマウンテンでの核の光も含んだ言葉でしょう。
かつての人類の愚かしさ、「黒歴史」そのものである核の光。
イデオンでは双方和平の道を探りながらも、結局 無限力に見捨てられ宇宙ごと消滅し、
逆シャアではそういった人類にシャア=アズナブルは絶望し、
神ならぬ人の身で鉄槌を下そうとします。
Vガンダムでも、フォンセ=カガチはエンジェルハイロウにてそういう人類を
粛正しようとします。
逆シャア、Vガンではこれらの審判は「保留」とされますが、イデオンでは「有罪」であり
鉄槌を下されるわけです。
(世間一般でいわれる「バカは死ななきゃ直らない」というやつですね。)
トミノものは人類のこういったどうしようもない救いのなさをテーマにすることが
非常に多いのですが、では∀はというと、
すでに「月光蝶」によって一度鉄槌を下された後の人類なのです。
人類の罪の象徴「地球光」そして人類に下される鉄槌「月光蝶」。
人類の救いは地球光をみて我にかえった人に託され、
滅びとともに原罪を再び月光蝶で裁かれるか、ということです。
「バカは死んでも直らない」か、それとも・・・。
映画化という作業に置いて必ずしなくてはならない作業が切り捨てです。
中途半端に切り捨てると映画がTVの上澄みのようになってしまい
面白くも何ともありません。
しかしながら、TVの∀という作品は「間のばし」「閑話休題」といった
要素がほとんど無いものだったので、その編集作業は
大変な困難が伴ったことは想像に難くありません。
∀ガンダムの特徴としてストーリーやテーマに対して
ほとんど全てのキャラが重要な位置にいるということがあります。
もともと∀は一年モノとしても破格の情報量を持っていて、
しかも小エピソードがあつまって全体を成しているのではなく
25時間の映画ともいえる構成をしています。
だから一見削れるローカルエピソードに見えても登場するキャラが後に大きく
テーマ・物語に関わってくるので削ることができないというジレンマがあります。
丸ごと削除が不可能なら、1つのエピソードを出来るだけ縮めるしかありません。
複数のエピソードをつなげて違和感なく一つのエピソードに仕上げたり、
フィルムの細切れをして間を抜き元通りにつなぎ直すなど、
編集の天才トミノの力を遺憾なく発揮しています。
たしかに違和感は無いですし、その出来は
見ている者に視聴時間を錯覚されすほどです。
ですが削られた情報量により演出の深みが不足しがちなのもまた
事実でしょう。
残念ながら、富野監督特有の世界の重厚さがなりを潜めているような気がいたします。
と、言いますのも捨てられたエピソードの「ローラの牛」で描かれているような
富野作品特有の「生きている人」を描いた演出部分まで削らざるをえなかったからです。
(「ローラの牛」は地球にやってきたムーンレイスの悲哀、あくまで高圧的なディアナカウンターの兵士、
そして土地をうばられた地球人の恨み。そういったすれ違いに憤るロランといったものが描かれた秀逸なエピソードです。)
間を詰め、いくつかのエピソードを切り捨てても、合計5時間弱という映画において
形に出来るかというとそうではありません。
そこでエピソードという縦割りの単位ではなく、
横の流れであるテーマを切り捨てるという離れ業も行いました。
映画にてスパリと切り捨てたテーマは
ディアナ様とキエル嬢、というかディアナ=キエルという存在です。
冷凍睡眠を繰り返しながら何百年も生き、年老いて普通に死ぬことを幸せだと言うディアナの悲しみ。
キエルとして旅をすることで得たすばらしき日々。
そしてかつての知り合いの
子孫達との出会い、死別・・。
これは∀のテーマの一翼を担うものでありましたが、
このテーマを切り捨てることで時間的制約のなかで
F91の様に思索が四散してしまうことを防ぐ、つまり映画的メリハリを
得ています。
そして残ったテーマ、人の愚かさに対する審判というものにウエイトを置き、
見事に2部構成に仕上げられています。
今回「地球光」と「月光蝶」のはざまで捨てられたエピソードは
女王ディアナの縮図であるアステカの王の話、
またムロンとキャンサー、ウィル=ゲイムといった長い時を生きるディアナの懊悩を
示すエピソード、
普通に生きるというすばらしさを表現した野戦病院のエピソードといった
ディアナ=キエルという一つのテーマに関するもの、そのほとんどになります。
その代わりとして得たモノはTVシリーズでは少々浮いて聞こえた「闘争本能」という
言葉・・・これは人類の愚かさそのものであります・・この言葉に対する説得力、
そしてこのテーマに対する強い求心力です。
猫はTVの∀を知るものとしてディアナ様のテーマが消えることを残念がる一方で、
しかしながら映画としてああいうシーンセレクトの仕方を出来る富野監督に
いまさらながら戦慄を覚えざるを得ません。
「地球光」のストーリの起伏はソシエ嬢の心の動きとシンクロしているように
猫は思えます。
切り捨てられそうで切り捨てられなかったギャバンの求愛です。
が、取捨択一されたテーマの考えれば、核で吹っ飛ぶギャバンがソシエ嬢にとって
只の人であるという変化は許されないのです。
TVでは数話にまたがり段階的に求愛するのですが、(そしてソシエ嬢も
それに心揺れ動いたりする描写もあるのですが・・)それをそのまま取り入れる
時間的ゆとりはもちろんありません。
そこで、このシーンは新たに作り起こされました。
また、この新シーンが短いながらもTVにも負けずらず雄弁に語ってくれる・・
そんなところに猫はうれしくなってしまいます。
そして、もう一つ捨てられないシーンにウェディングドレスを着て
「ギャバン、私、綺麗でしょ」ソシエ嬢が叫ぶシーン、
これのシーンがあるからこそ、
ソシエ嬢が恨みや遺恨を乗り切れたということを実感できると猫は思うのです。
全体的に、今回の∀は間を切りつめたために演出としては
どうしてもTVシリーズに劣ってしまいます。
それでもきらりと光る演出があるのが富野作品の醍醐味でしょう。
ロランの地球降下からビシニティの人間になっていくところまでは
TVでは1話消費することで「闘争本能」が目覚める前の
地球(といっても隣国や多大陸との戦いの歴史はあるようです)を
描写し、∀の世界観に馴染ませてくれます
劇場版ではこれらをプロローグとして一つにまとめてさっ、と流します。
一つの流れとして一体化していてまるでゼリーのようにチュルンと
消化されていくのです。
よくあるエピローグにて各キャラのその後を矢継ぎ早に流す
もの(∀でもそうです)がありますが、あれを
プロローグでも行っているといった感じでしょうか、
珍しい手法です。
成人式・・。ロラン君パンツはいちゃいましたね・・。
これはアメリカ版TVで倫理規制にひっかがっちゃうから
パンツをはかせたのですが、それに合わせたからだそうです。
日本版でもロランの金魚くんが芸術的な動きで巧みに隠すので、
別にフリチンが見えるわけでもないのに、ねぇ・・。
ウォドムとターンAとの戦闘は劇場版の予告編に見るように
凄いモノです。
どれだけ凄いかというと言葉で言い表せないですね(^^;。
地球光ではほとんどMS同士の新作画は無いようですが、
(そしてカットされたシーンが大変おおいのですが)それでも
一瞬うはっ♪とさせるのは、やっぱりいいですね。
ただ、長丁場がないのでそれが続かないのですが・・(^^;
その他のシーンを犠牲にしても力をいれたのがここです。
とくに爆発する前の間の取り方、
しん、っと静まりかえる爆発の予兆。
そして爆発。
その光は真夜中なのに夜明けのようにみえる・・・・。
TVでもすばらしい演出でしたが劇場版ではそれに輪をかけて
凄いモノになっています。
そう、ソシエ嬢に「戦争なんてしている場合じゃないんだ」(TV)と
言わせるだけの説得力のあるモノになっています。
「地球光」のハイライト、最重要部だけに圧巻です。
ウィルゲム出航で終わる地球光ですが、エンディングと共に
まるで次回の予告編のように二つのエピソードがカットインされてます。
(ブレンパワードの次回予告もこんな感じでしたね。)
一つはソシエ嬢が死んだギャバンにウエディングドレスを披露するシーン。
そしてもう一つはロラン達がディアナカウンターの士官、ゼノア大尉から
残ったロストマウンテンの核を託され、∀の胸に隠されるシーンです。
この2つのエピソードは「月光蝶」へのテーマの引き継ぎといった面とともに、
時間短縮という意図をもってここに配置されたみたいですね。
うまいとは思いますし、削らないということ自体に敬意を表したいですが
猫は正直なところDVDリリース時に完全版として
通常シーンにして欲しいところです。
総じて駆け足という印象がどうしてもぬぐいきれない劇場版ですが、
それでありながらも面白いと感じさせてくれます。
F91ぐらいからでしょうか、物語のテーマ、訴えというモノを
重要視するあまり富野監督作品は見ているものにカタルシスを感じさせることを
あまりにも軽視し、それが一般の富野作品の評価を下げてしまっている
気がします。
その徹は庵野氏のエヴァンゲリオンでもラストにおいて踏んでしまっている
のですが、富野監督はこの∀においてそれをも乗り越えてしまっています。
そして、あの情報量をこれだけの時間に納めたこと、
地球光ではそのテーマを絞り込むことで映画として大変見応えのあるものに
仕上がっていること。
今回のレポートを書くにあたって猫はまだ1度しか見ていないです。
また、どれだけの変化があるか、という穿った見方をしていましたので
素直な感想とはいえないものがあります。
猫はTV版∀にべたぼれするあまり、劇場版を冷静に見てはいません。
ですので正直満点は与えられません。(TVの∀は申し分なく満点でした)が
満点でないからといって、この劇場版∀に申し分はありません。
どこがいけない、という見方をした場合ほとんど不満をあげることが
出来ないのもまた事実なのです。
そして、地球光単品で見ても面白いものに仕上がっている点は
ガンダムII.哀戦士編をも超えたでしょう。
と、言うわけで
月光蝶編に続くにゃ〜。
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